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『岸辺の旅』批評

『岸辺の旅』(黒沢清. 2015年)

2015年に『岸辺の旅』を初めて見ましたが、当時はあまり面白いと思いませんでした。私は黒沢清監督のホラー映画が好きで、そちらに興味がありました。私を映画に連れて行ってくれた日本人の友達は『岸辺の旅』がとても気に入りました。友達の意見を聞きながら私は大きな違いが感じて、ちょっと寂しくなりました。

六年後、もう一度『岸辺の旅』を見て、最初の意見がとても変わりました。どうしてでしょう。その間に私自身が変わったためか、あるいは、最近は宮沢賢治の作品にとても興味がありますから、この映画と賢治の関係を見つけて、映画をもっと深く理解できたからかもしれません。

黒沢清監督は2003年に『風の又三郎』のテレビ映画も作りましたから、賢治作品との関係は突飛な連想ではないと思います。

この批評では三つのポイントを説明します。

 

一、死の世界と生の世界の境界がない

『岸辺の旅』を見ると、織姫と彦星の伝説が思い出されます。映画の夫婦、みずきとゆうすけの二人は別の世界に分かれて生きている。会うことは難しいです。ある夜、ゆうすけはみずきの世界へやって来て、二人は不思議な旅行を始めます。

織姫と彦星の伝説より、『岸辺の旅』は宮沢賢治が書いた有名な小説『銀河鉄道の夜』と関係があるかもしれません。まず、宮沢賢治の小説は同じ伝説からインスピレーションを貰っています。また、黒沢清監督自身、他の宮沢賢治の作品の翻案をつくりました (2003年『風の又三郎』)。さらに、主人公みずきはジョバンニに似ていて、幽霊である魅力的な夫、ゆうすけ (友達、カンパネラ) と旅行を始まて、いろいろな出会いをします。

旅行ですから境界が大事だと考えますが、演出でさまざまな境界の表現が現れます。黒沢清監督の他作品にも言えることですが、光の変化は幽霊の世界と生きるものの世界が近づくことを示しています。ゆうすけが最初に家に現れるショットにおいて、ライトには大きな役目があります。夫婦が働くレストランでみずきがピアノを弾いた後、すぐにライトも変化します。

光の変化だけではありません。旅行中に様々な境界が現れます。例えば、バスを降りた二人は別れるようにゆうすけが道路を渡ります。

 

二、境界に対するみずきの役目

みずきはいろいろな人々と出会って話しますが、しばしば人間と幽霊の区別がつきません。それにピアノのシーンが示すように、彼女は幽霊の現れを導きます。つまり、みずきはふたつの世界のリンクのようになると思います。女優の演技にはためらいの表現がよく出てきます。このためらいは、もちろん、ゆうすけの浮気に対して自分自身が「ゆうすけを許せるか、許せないか」という問いでもありますが、「幽霊になったゆうすけと一緒に旅をして本当にいいのか」の問いでもあると思います。

みずきがためらいの表現をする一方、ゆうすけはいろいろな表現、いろいろな顔を見せます。彼ははっきりわからないタイプのキャラクターみたいです。みずきにとって彼の優しさは恐ろしいものです。ゆうすけは許されることを目的にこの旅をしているのでしょうか。とにかくゆうすけは仲介者の役目を担い、彼はさまざまな関係を作ります。一方、みずきは二つの世界の「間」で生きる人間です。ゆうすけは簡単に消えたり現れたりできますが、みずきは二つの世界の間で引き裂かれています。

 

三、終わりなし

最後の町でみずきは少年と散歩して、滝が落ちる黒い池を見つけます。一般的に、黒沢清監督の映画には黒くて不思議で魅力的な形がいっぱいです。例えば『回路』 (2001年)で主人公は壁に現れる人間の体に似ている黒い形を見つめます。『岸辺の旅』の黒い池は、死の世界への扉について考えさせますが、みずき自身の心象を反映したものかもしれません。みずきが滝に魅了される様子は、みずきがゆうすけに魅了される様子に似ています。

ここで境界のテーマと『銀河鉄道の夜』に少し戻りましょう。『銀河鉄道の夜』では境界のリアリティがあまりなく、ずっと境界のあいまいな旅のように思えます。もちろん、このあいまいな印象には様々な説明ができます。銀河の旅は距離や景色が地球にくらべ違うとか、ジョバンニはおそらく夢を見ているとか。夢なら心象的な旅になり、境界はもちろん自然にぼんやりになります。

この小説のように、『岸辺の旅』の境界表現や旅の表現はみずきの個人的な知覚を反映したものかもしれません。

映画の終わりごろにゆうすけは村の住人に面白い授業をします。先生としてゆうすけが世界の終わりについて論じるとき、農民の観客の上に電灯がだんだんついていきます。面白いコントラストです。ゆうすけが終わりというテーマを論じても、(そして、彼の最後の授業で、このすぐ後にみずきの腕にゆうすけは消えてしまいます)、電灯から発する光のショットはどしどしと生の印象を与えます。旅は終わりますが、映画の演出は終わらないような印象を与えます。

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